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イタリアについて考える

この間、妻とイタリア旅行に行ってきたのですが、そこで次の2点について感銘を受けました。

一点目は、建築物および絵画や彫刻などの芸術品がもつスケールの大きさおよび緻密さ。

二点目は、おおらかでゆったりとした人間性。

ミラノ 前者については、千年単位での歴史を有する建築物や芸術品が、普通の町中に連綿として息づき、調和を保っています。それらのスケールは非常に大きく、主材料である石の重厚感とあわせて圧倒的な迫力をもって見る者にせまってきます。しかし、その規模の巨大さにもかかわらず、細かな部分は非常に緻密に作り込まれており粗雑さを感じさせません。高い芸術性を備えた一つ一つの細かな部品が連なって、巨大な建造物が生み出されており、その迫力は我々を驚嘆させます。

後者については、日本人にとっては至極当たり前のことである「効率性の追求」などという概念を全く持ち合わせていないそのおおらかさ、悪くいえば能率の悪さが特質として感じられました。たとえば喫茶店で団体客が一度にオーダーを頼もうとした場合、日本人のウェイターならばなるべく複数の注文を同時に受け、同時に配膳して時間の短縮をはかろうとするでしょう。しかしながら、彼らはそのような並列処理をしようとはせず、一人の注文に応えてから次の一人の注文を片づけるというような直列処理を、ゆったりとしたペースで行います。我々日本人の感覚からするとその能率の悪さは滑稽なほどです。

もし日本でこのような店員に出くわしたらイライラがつのることこの上ないでしょう。しかしこの国で過ごしていると、そのような行動パターンも「まぁ、これでいいんだよな。」と思えてしまうから不思議なものです。

ここでふと疑問に感じたことがありました。「こんなにゆったり、ノロノロしている人たちが、どうしてあんなに緻密かつ巨大な建築や芸術を生み出すことができたのだろうか」と。

それについての私の考え方はこうです。かつて彼らはローマ帝国で頂点を極めました。彼らの大らかさは、一度トップに立ったことがある者の余裕なのではないだろうか。「競争なんてさんざやったからもういいよ。」という心境から生まれるおおらかさなのではないだろうか。

私は常々「真に自由な創造性は商業ベースを排したところに発揮される」、つまり資金や締め切りなどの世俗の縛りから外れて初めて、自由な創造性は発揮されると考えているのですが、かつてトップを極め、競争の虚しさを知るローマ帝国の子孫達は、世俗のつまらないしがらみを気にしない大らかさを持ち、その大らかさが土壌となって、緻密かつ圧倒的なスケールでせまる建築や芸術を生み出す創造性が発露されているのではないでしょうか。

我々日本人はエコノミックアニマルと揶揄されるほどにしゃかりきに働いてきました。強烈な上昇志向をもって努力し、経済的にはある程度の成功を収めはしました。しかしながら、軍事力などを含めた国全体の力としては万年2位以下で、常に追いつき追い越せと努力し、効率を求め、セカセカし、悲しいかな現代に至っては疲れ始めて国力が低下し始めています。

イタリア人の非効率性を笑うなかれ。2000年超の視点から見れば、笑われているのは我々日本人の方なのかも知れません。

妻です (妻です)


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Posted at 07/08/02 16:08 | Edit

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