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熊野を少しアカデミックに楽しむ記

2007年8月、九年ぶりに和歌山県の熊野まで旅行に行ってきました。私は学生時代に修験道を研究していましたので、今回の旅行は当時の記憶を呼び戻しながらものとなりました。そこで、今回は「少しアカデミックに旅行を楽しむ記」にしたいと思います。

熊野にある主要な神社は「本宮」「新宮」「那智」と呼ばれ、併せて「熊野三山」と称されます。そして熊野三山に関しては次のような由来が伝わっています。

唐の天台山の王子信というものが日本の彦山にまず天降りました。それは、四国の石鎚山、淡路の遊鶴羽山、紀州の切部山を経て、熊野新宮の南、神蔵山に降臨しました。その後この神は、新宮の東、阿須賀社の北にある石淵(やぶち)の谷に移りましたた。名を結玉家津美御子と言い、二宇の社に祀られ、その後、本宮大湯原(おおゆのはら)の三本の櫟(いちい)の木の梢に、三枚の月形として天降られました。

 そのさらに後、熊野の千与定(ちよさだ)という犬飼が、猪を射てその跡を探して大湯原に行くと、猪は櫟の木の元で死んでいました。千代定は猪の肉を食べ、櫟の木の所で宿をとりました。犬飼は、櫟の木にかかっていた三枚の月形を発見し、どうして空を離れて木の上にいるかと聞きました。月は答えて、「我は熊野三所権現である。一社は証誠大菩薩であり、もう二社は両所権現」などと仰せになりました。

このような話がどのように生まれ、どうやって現在まで伝わっているのかということに関心を持つと、ただの観光旅行がひと味違ったものになってきます。

まず、この話は「熊野権現御垂迹縁起(くまのごんげんごすいじゃくえんぎ)」といいます。「垂迹」とは仏や菩薩が我々を助けるために仮の姿をとって現れること、「縁起」とは、神社やお寺の起こりを記したもののことをいい、簡単に意味を取ると「熊野権現が姿をお現しになった由来の記」とでもいったところです。ただし、この縁起は完全な形では残っておらず、成立年代なども不明です。

では、なんでそんな話が伝わっているのかというと、1163年(長寛元年)から翌年にかけて記された『長寛勘文(ちょうかんかんもん)』という文章に「熊野権現御垂迹縁起に云わく......」として引用されて残っているからです。このように引用文としてだけ残っている文章を「逸文(いつぶん)」といい、貴重な歴史的資料となります。

ただし、『長寛勘文』についても当時の文書がそのまま残っているわけではありません。それは、さらに江戸時代の1819年(文政2年)に完成した『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』という書物の二六に収められることにより、現在に伝わっています。『群書類従』を現在の活字本で見てみるとこんな感じです。
熊野権現御垂迹縁起
(クリックすると別ウィンドウで開きます)

一見、漢文風ですが、文法は日本語です。小さい漢字で送りがなや助詞などが付いているので、比較的読みやすいと思います。

ここで地名や神社の名前に注目してみましょう。ここから先は上の画像をクリックして別画面で開いてから読み進めて下さい。

傍線部①に「熊野新宮の南の神蔵峰に降り給う」とありますが、「熊野新宮」は現在の新宮、熊野速玉大社のこと、 「神蔵峰」は現在の神蔵神社のあるところです。
熊野速玉大社(熊野速玉大社)
神蔵神社(神蔵神社)

続いて傍線部②「新宮の東の阿須加の社」とあるのが現在の阿須賀神社、 傍線部③の「本宮大湯原(おおゆのはら)」が現在の大斎原となります。 阿須賀神社(阿須賀神社)
大斎原(大斎原)

こんな感じで歴史資料を読み解きながら現在の地名と照らし合わつつ、旅してみるのはいかがでしょうか。900年近くも昔の人々と空間を共有するような、ちょっと不思議な気持ちで旅行を楽しめます。

妻です (妻です)


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Posted at 07/08/29 18:08 | Edit

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