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      <title>山仁哲学堂</title>
      <link>http://www.yamani-philos.com/</link>
      <description>とある経営者が、その &quot;マメ知識&quot; を総動員して築かんとする膨大なる知の大系（予定）</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2007</copyright>
      <lastBuildDate>Thu, 22 Nov 2007 16:33:22 +0900</lastBuildDate>
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      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

      
      <item>
         <title>越後六日町　温泉御宿　龍言</title>
         <description><![CDATA[<p style="text-align: center;"><img src="http://www.yamani-philos.com/img/ryugon1.jpg" width="600" height="250" border="0" alt="龍言" /></p>

<p class="mds2">ポイント</p>
<p>庭園野天風呂手前のギャラリーは、片隅でパタンパタンと機織が行われ、それが心地よいリズムとなる心落ち着く空間。</p>

<p>ギャラリー一隅の暖炉では炭火がともり、その前でソファーにゆったりと腰掛けてふける読書は最高の一時です。</p>

<p class="mds2">概要</p>
<p>
名称：越後六日町　温泉御宿　龍言（えちご　むいかまち　おんせんおやど　りゅうごん）<br />
場所：〒 949-6611　新潟県南魚沼市坂戸山際79<br />
滞在時期：２００７年１１月１６日～１７日<br />
同行者等：社員旅行
</p>

<p class="mds2">施設</p>
<p>越後の庄屋や豪農の館を移築した、平屋建てを基調とした和風建築物と、約4000坪の大庭園からなる静かな空間。見取り図はこんな感じ。</p>
<p style="text-align: center;">
<a href="http://www.yamani-philos.com/img/ryugon_mitorizu.jpg" target="_blank"><img src="http://www.yamani-philos.com/img/ryugon_mitorizu.jpg" width="530" height="767" border="0" alt="龍言　見取り図" /></a></p>

<p class="mds2">料理</p>
<p>料理はボリュームたっぷりも、油もの少なく、最後までおいしく食べることができます。季節柄、松茸の土瓶蒸し・魚沼地鶏の茸鍋など、盛りだくさんの茸料理が出されましたが、いずれも絶品でした。</p>


<p style="text-align: center;">
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</p>

<p class="mds2">近隣</p>
<p>魚沼市大浦にある曹洞宗赤城山西福寺開山堂の石川雲蝶の彫刻は必見。
<img src="../img/untyo1.jpg" width="30%" height="30%" border="0" alt="西福寺開山堂　石川雲蝶１" />
<img src="../img/uncho2.jpg" width="30%" height="30%" border="0" alt="西福寺開山堂　石川雲蝶１" />
<span style="font-size:10px;">出典：『西福寺開山堂』３１頁</span>
</p>

<p style="text-align: center;">
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</p>

]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/710/post_9.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">710宿</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 22 Nov 2007 16:33:22 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>間接的加害者</title>
         <description><![CDATA[<p>　薬害C型肝炎問題が巷間を騒がせている。加害者である製薬会社、問題を放置もしくは隠蔽した国、何れからも被害者への通知などの作業が遅々として行われない。</p>
<p>　役人の自己保身は分かり易すぎるとして、なぜ製薬会社はここまで問題が大きくなっていながら被害者の実名などを隠すのか。</p>
<p>　このことを製薬会社に勤めていた某人に問うと、酔っぱらいながら反問して曰く、「製薬会社はどちらを向いていると思っているのか！」</p>
<p>　なるほど、薬害を認めれば認めるほど、その損害賠償額は膨らんでいく。賠償額が膨らめば、会社の業績は悪化する。業績が悪化すれば、株主への配当が少なくなり、株価も下落する。そして、経営陣は株主から経営責任を問われ、自分たちの立場が危うくなる。そうならないために、会社はなかなか薬害の事実を認めたがらないのである。</p>
<p>　こういうことからすると、投資家・投機家、特にそれが利殖目的である場合、彼らは薬害問題の間接的加害者ではあるまいか。</p>]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/330/post_8.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/330/post_8.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">330社会の仕組み</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 09 Nov 2007 15:13:30 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>娑婆</title>
         <description>読み：しゃば
我々の生存するこの世のこと。
サンスクリット語のsaha(上－)の音写（サンスクリット音に類似の発音の漢字をあてたもの）で、語源的には「忍ぶ」という意味が含まれます。この世界に住む我々にはいろいろな煩悩があり、周囲には風雨寒暑などがあって、それらの苦悩を堪え忍ばなければならないことからこの名称があります。</description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/020/post_7.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/020/post_7.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">020基本用語</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 12 Sep 2007 17:25:40 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>熊野を少しアカデミックに楽しむ記</title>
         <description><![CDATA[<p>2007年8月、九年ぶりに和歌山県の熊野まで旅行に行ってきました。私は学生時代に修験道を研究していましたので、今回の旅行は当時の記憶を呼び戻しながらものとなりました。そこで、今回は「少しアカデミックに旅行を楽しむ記」にしたいと思います。
</p>
<p>
熊野にある主要な神社は「本宮」「新宮」「那智」と呼ばれ、併せて「熊野三山」と称されます。そして熊野三山に関しては次のような由来が伝わっています。
</p>
<blockquote>
<p>
唐の天台山の王子信というものが日本の彦山にまず天降りました。それは、四国の石鎚山、淡路の遊鶴羽山、紀州の切部山を経て、熊野新宮の南、神蔵山に降臨しました。その後この神は、新宮の東、阿須賀社の北にある石淵（やぶち）の谷に移りましたた。名を結玉家津美御子と言い、二宇の社に祀られ、その後、本宮大湯原（おおゆのはら）の三本の櫟(いちい)の木の梢に、三枚の月形として天降られました。
</p>
<p>
　そのさらに後、熊野の千与定（ちよさだ）という犬飼が、猪を射てその跡を探して大湯原に行くと、猪は櫟の木の元で死んでいました。千代定は猪の肉を食べ、櫟の木の所で宿をとりました。犬飼は、櫟の木にかかっていた三枚の月形を発見し、どうして空を離れて木の上にいるかと聞きました。月は答えて、「我は熊野三所権現である。一社は証誠大菩薩であり、もう二社は両所権現」などと仰せになりました。
</p>
</blockquote>

<p>このような話がどのように生まれ、どうやって現在まで伝わっているのかということに関心を持つと、ただの観光旅行がひと味違ったものになってきます。</p>
<p>
まず、この話は「熊野権現御垂迹縁起（くまのごんげんごすいじゃくえんぎ）」といいます。「垂迹」とは仏や菩薩が我々を助けるために仮の姿をとって現れること、「縁起」とは、神社やお寺の起こりを記したもののことをいい、簡単に意味を取ると「熊野権現が姿をお現しになった由来の記」とでもいったところです。ただし、この縁起は完全な形では残っておらず、成立年代なども不明です。
</p>
<p>
では、なんでそんな話が伝わっているのかというと、1163年（長寛元年）から翌年にかけて記された『長寛勘文（ちょうかんかんもん）』という文章に「熊野権現御垂迹縁起に云わく……」として引用されて残っているからです。このように引用文としてだけ残っている文章を「逸文（いつぶん）」といい、貴重な歴史的資料となります。
</p>
<p>
ただし、『長寛勘文』についても当時の文書がそのまま残っているわけではありません。それは、さらに江戸時代の1819年（文政2年）に完成した『群書類従（ぐんしょるいじゅう）』という書物の二六に収められることにより、現在に伝わっています。『群書類従』を現在の活字本で見てみるとこんな感じです。<br />
<a href="kumano.jpg" target="_blank"><img src="kumano.jpg" width="681" height="453" border="0" alt="熊野権現御垂迹縁起" /></a><br />

<span style="text-align:right;margin: 0px;font-size:10px;display:block;">（クリックすると別ウィンドウで開きます）</span>
</p>
<p>一見、漢文風ですが、文法は日本語です。小さい漢字で送りがなや助詞などが付いているので、比較的読みやすいと思います。</p>
<p>
ここで地名や神社の名前に注目してみましょう。ここから先は上の画像をクリックして別画面で開いてから読み進めて下さい。
</p><p>
傍線部①に「熊野新宮の南の神蔵峰に降り給う」とありますが、「熊野新宮」は現在の新宮、熊野速玉大社のこと、
「神蔵峰」は現在の神蔵神社のあるところです。<br />
<img src="hayatama.jpg" width="320" height="240" border="0" alt="熊野速玉大社" style=" margin-left: 100px;" />（熊野速玉大社）<br />
<img src="kamikura.jpg" width="320" height="240" border="0" alt="神蔵神社" style=" margin-left: 100px;" />（神蔵神社）
</p>

<p>
続いて傍線部②「新宮の東の阿須加の社」とあるのが現在の阿須賀神社、
傍線部③の「本宮大湯原（おおゆのはら）」が現在の大斎原となります。
<img src="aska.jpg" width="320" height="240" border="0" alt="阿須賀神社" style=" margin-left: 100px;" />（阿須賀神社）<br />
<img src="ohyunohara.jpg" width="320" height="240" border="0" alt="大斎原" style=" margin-left: 100px;" />（大斎原）
</p>
<p>こんな感じで歴史資料を読み解きながら現在の地名と照らし合わつつ、旅してみるのはいかがでしょうか。９００年近くも昔の人々と空間を共有するような、ちょっと不思議な気持ちで旅行を楽しめます。</p>
<p style="text-align:right">
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</script>
</p>

<p style="text-align: center;">
<img src="kumano_tsuma.jpg" width="213" height="160" border="0" alt="妻です" style="margin: 300px auto auto 100px;" />
（妻です）
</p>

]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/700/post_6.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/700/post_6.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">700旅行記</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 29 Aug 2007 18:20:45 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>イタリアについて考える</title>
         <description><![CDATA[<p>
この間、妻とイタリア旅行に行ってきたのですが、そこで次の２点について感銘を受けました。
</p><p>
一点目は、建築物および絵画や彫刻などの芸術品がもつスケールの大きさおよび緻密さ。
</p><p>
二点目は、おおらかでゆったりとした人間性。
</p>
<p>
<a href="http://www.yamani-philos.com/img/DSC00899.JPG" target="_blank"><img src="http://www.yamani-philos.com/img/DSC00899.JPG" width="160" height="213" alt="ミラノ" style="float:right;" /></a>
前者については、千年単位での歴史を有する建築物や芸術品が、普通の町中に連綿として息づき、調和を保っています。それらのスケールは非常に大きく、主材料である石の重厚感とあわせて圧倒的な迫力をもって見る者にせまってきます。しかし、その規模の巨大さにもかかわらず、細かな部分は非常に緻密に作り込まれており粗雑さを感じさせません。高い芸術性を備えた一つ一つの細かな部品が連なって、巨大な建造物が生み出されており、その迫力は我々を驚嘆させます。
</p>
<p  class="clear">
後者については、日本人にとっては至極当たり前のことである「効率性の追求」などという概念を全く持ち合わせていないそのおおらかさ、悪くいえば能率の悪さが特質として感じられました。たとえば喫茶店で団体客が一度にオーダーを頼もうとした場合、日本人のウェイターならばなるべく複数の注文を同時に受け、同時に配膳して時間の短縮をはかろうとするでしょう。しかしながら、彼らはそのような並列処理をしようとはせず、一人の注文に応えてから次の一人の注文を片づけるというような直列処理を、ゆったりとしたペースで行います。我々日本人の感覚からするとその能率の悪さは滑稽なほどです。
</p><p>
もし日本でこのような店員に出くわしたらイライラがつのることこの上ないでしょう。しかしこの国で過ごしていると、そのような行動パターンも「まぁ、これでいいんだよな。」と思えてしまうから不思議なものです。
</p><p>
ここでふと疑問に感じたことがありました。「<span style="font-weight:bold;">こんなにゆったり、ノロノロしている人たちが、どうしてあんなに緻密かつ巨大な建築や芸術を生み出すことができたのだろうか</span>」と。
</p><p>
それについての私の考え方はこうです。かつて彼らはローマ帝国で頂点を極めました。彼らの大らかさは、一度トップに立ったことがある者の余裕なのではないだろうか。「競争なんてさんざやったからもういいよ。」という心境から生まれるおおらかさなのではないだろうか。
</p>
<p>
<a href="http://www.yamani-philos.com/img/DSC01055.JPG" target="_blank"><img src="http://www.yamani-philos.com/img/DSC01055.JPG" width="160" height="213" alt="" style="float:left;" /></a>
私は常々「真に自由な創造性は商業ベースを排したところに発揮される」、つまり資金や締め切りなどの世俗の縛りから外れて初めて、自由な創造性は発揮されると考えているのですが、かつてトップを極め、競争の虚しさを知るローマ帝国の子孫達は、世俗のつまらないしがらみを気にしない大らかさを持ち、その大らかさが土壌となって、緻密かつ圧倒的なスケールでせまる建築や芸術を生み出す創造性が発露されているのではないでしょうか。
</p>
<p class="clear">
我々日本人はエコノミックアニマルと揶揄されるほどにしゃかりきに働いてきました。強烈な上昇志向をもって努力し、経済的にはある程度の成功を収めはしました。しかしながら、軍事力などを含めた国全体の力としては万年２位以下で、常に追いつき追い越せと努力し、効率を求め、セカセカし、悲しいかな現代に至っては疲れ始めて国力が低下し始めています。
</p><p>
イタリア人の非効率性を笑うなかれ。2000年超の視点から見れば、笑われているのは我々日本人の方なのかも知れません。
</p>
<p style="text-align:right">
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</p>


<p style="text-align: center;font-size:10px;margin-top: 300px;">
<img src="http://www.yamani-philos.com/img/5j1lyelxe.jpg" width="160" height="213" alt="妻です" style="margin: 0px auto;" />
（妻です）
</p>
<hr />
<p class="chu">関連記事：<a href="http://xn--rovx17bryk.yamani-philos.com/209/post_6.php" target="_blank">塩野七生「ローマ人の物語」スペシャル・ガイドブック</a>（山仁哲学堂分室　その壱　書評箋）</p>
]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/700/post_5.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/700/post_5.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">700旅行記</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Aug 2007 16:58:46 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>テレビを見るとバカになるか</title>
         <description>皆さんは小学生時代、先生に「バカになるからテレビは見るな！」とよく言われませんでしたか？　これは本当のことなのでしょうか？

私の大学院時代の経験をもとにお話しします。

私が所属した大学院は非常に厳しい世界でした。何らかの発表をするにあたって発表者は一分の隙も許されず、発表者と聞き手の間では活発な議論が要求され、互いに少しでも隙があれば容赦のない攻撃が徹底的に行われる世界でした。

そのような日々の中で次のような発見をしました。発表の準備に手間をとられていると当然テレビを見る暇もないのですが、それを見ない期間が長ければ長いほど論戦での調子がよいのです。そしてその調子の良さは一晩テレビを見て過ごした途端切れ味を失ってしまい、翌日の議論では防戦一方となってしまうのです。

体験的に「テレビを見るとバカになる」ことを実感したわけですが、このことは次のように分析できると思います。分かりやすくするために、「テレビ」と「読書」を対比するかたちをとることにします。

テレビは、理解しやすい情報が簡単に発信される媒体です。画面には映像があり、スピーカーからは音がでて、大して頭を使わなくても発信される情報をそのまま理解できます。

これに対し、読書は理解しにくい情報が発信される媒体です。紙に印刷された文字は、それ単体では単なる記号の羅列です。記号の羅列が組み合わさることにより単語や助詞などが生まれ、それらが組み合わさることにより文脈が発生します。文脈をもとに読み手は頭の中で様々な情景を想像し、本の内容を理解します。

つまり、読書には単なる記号の羅列を咀嚼し、その意味するところを想像する作業が必要となるのです。対してテレビは最初から分かりやすい映像や音を提供してくれるため、これらの作業は必要となりません。結果、脳は怠けてしまいバカになるわけです。

私は、テレビ漬けの脳を「受動的な脳」、情報を咀嚼して消化する脳を「能動的な脳」と呼んでいるのですが、「能動的な脳」でいる方が、仕事においても日常生活においてもとても快適です。

「能動的な脳」であるためにどうすればよいか、答えは簡単で「テレビ断ち」をしてみるのです。普段テレビを見ることが習慣付いている人が「テレビ断ち」を始めると、ほどなく体の奥がムズムズし出してテレビを見たくなってきます。そこをグッと我慢して読書や運動、会話などにエネルギーを使ってみましょう。体の奥のムズムズがピリピリと神経系統を通して体の末端まで広がり、己の五感が刺激を求めて次第に鋭敏になっていくのを感じることでしょう。

「テレビ断ち」が人間の感覚を鋭敏にすることについては、人間の心の基本的な指向性、武道家や宗教家が行う山籠もりなどの修行方法などとからめると面白い分析ができるのですが、それはまた別稿で。
</description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/320/post_1.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/320/post_1.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">320体の仕組み</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 21 May 2007 17:51:19 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>悩み</title>
         <description><![CDATA[<p>悩みには２種類あります。一つには「<strong>悩まざるべき悩み</strong>」、もう一つには「<strong>悩むべき悩み</strong>」です。</p>
<p>前者の「悩まざるべき悩み」とは、悩む必要がないのに自分自身の心の中で無駄に増幅させてしまっている悩みのことです。この解決方法は簡単で、悩むことが無駄なのですから、<strong>その問題について考えるのをやめればよい</strong>のです。</p>
<p>後者の「悩むべき悩み」とは、解決しなければならないことがあり、それについて心配したりあれこれ考えている状態のことをいいます。</p>

<p>ただし、「悩まむべき悩み」という表現にはちょっと問題があり、厳密にいうと「考えるべき悩み」「思考エネルギーを注ぐべき悩み」とでもいうのが正確です。</p>
<p>「悩み」という言葉の一般的な定義づけは「苦しみ。思いわずらい」（広辞苑）などとなっています。私流に解釈すれば「マイナス方向のスパイラルにはまった出口のない思考」といったところです。</p>

<p>解決しなければならないのに出口のない方向に向かっても仕様がありません。頭を使うべきは<strong>解決方法を考えること</strong>なのです。</p>
<p>気分を落ち込ませて考えを行ったり来たりさせる作業は無駄でしかありません。マイナス方向のスパイラルにはまってしまっている自分を、ちょっと離れたところから客観的な目で見てみましょう。アナタは無駄な思考にエネルギーを費やしていませんか？</p>
]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/310/post.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">310心の仕組み</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 01 May 2007 18:00:48 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>意地悪</title>
         <description><![CDATA[<p><strong>意地悪</strong>についてこんな考察がありました。新入社員の時に先輩から意地悪された著者が、その先輩の心理を分析しています。</p>
<blockquote>
<p>会社というところにはとんでもなく意地悪な人がいる。しかも、同僚も上司もその人（たち）のことを見て見ぬふりをしている。</p>
<p>（中略）</p>
<p>意地悪な人はたいてい仕事もしない。自分に与えられた最低限の仕事はするとしても、他の人まで助けるようなことは絶対しない。仕事をしないから意地悪が際立つ。職場というのは利益共同体だから仕事さえできれば迷惑な人ではないから、意地悪が意地悪とはならない。</p>
<p>意地悪な人は、「自分は正当に評価されていない」とか「不本意な仕事をさせられている」と思っているから、悪循環として仕事以外の方面に気持ちが肥大してしまっている、というわけだ。そういうことにこだわるということは、意地悪な人は実は人一倍の権威主義者であり、上司（ただし部門長クラスの偉さの人）の目をとても気にしていもいる。当然、気も小さい（「豪快で意地悪な人」というのは聞いたことがない）。</p>
<p>これらを総合すると、<strong>意地悪はその人自身の自由意志の次元を超えた現象ということになる</strong>。大きな不安を抱えている人が明るく振る舞おうとしても振る舞えないのと同じことで、その人の中にある職場への不平不満が、その人の行動を、意地悪へ意地悪へと歪めてしまっているのだ。心神喪失とか心神耗弱（こうじゃく）と言うと大袈裟だが、とにかく意地悪な人は自分の意志ならざる力に操られるようにして意地悪をしてしまっているのだ。</p>
<p class="right">保坂和志　「新入社員の困惑」　2007/4/15日本経済新聞</p>
</blockquote>
<p>こう考えると、意地悪をする人に対してかなり精神的優位に立つことができますね。意地悪に限らず、人のマイナスの感情の発露はだいたいこんなパターンなのではないでしょうか。</p>]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/310/post_4.php</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">310心の仕組み</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 16 Apr 2007 17:42:50 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>四諦</title>
         <description><![CDATA[<p>読み：したい</p>
<p>仏教で説く、人生問題とその解決方法についての四種の真理のこと。苦諦（くたい）・集諦（じったい）・道諦（どうたい）・滅諦（めったい）の四つからなり、四聖諦（ししょうたい）ともいいます。人生に生じるあらゆる問題を解決するための思考方法として、非常に合理的、かつ実践的です。</p>
<p>まずは仏教語としての基本的な意味から。</p>
<p style="margin-left: 20;">（１）苦諦……この世は苦であるという真実。</p>
<p style="margin-left: 20;">（２）集諦……苦の原因が煩悩（ぼんのう）や妄執（もうしゅう）であるという真実。</p>
<p style="margin-left: 20;">（３）滅諦……苦の原因の滅という真実。</p>
<p style="margin-left: 20;">（４）道諦……理想の境地（滅諦）に至るための実践という真実。</p>
<p>これらを現代の我々の人生に役立つように、次のように解釈し直してみます。</p>
<p style="margin-left: 20;">（１）苦諦……<strong>問題の現状</strong>を正確に（真実として）把握する。</p>
<p style="margin-left: 20;">（２）集諦……その<strong>問題が生じている原因</strong>を正確に（真実として）把握する。</p>
<p style="margin-left: 20;">（３）滅諦……その<strong>問題が解決した理想の状態</strong>を、具体的に思い描く。</p>
<p style="margin-left: 20;">（４）道諦……<strong>理想の状態に到達するために必要な方法</strong>を、具体的に考え実行する。</p>
<p>本サイトでは、この思考方法にのっとって論を進めていく場合が多いので、頭の片隅においておいて下さい。</p>
]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/020/post_3.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/020/post_3.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">020基本用語</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 27 Mar 2007 15:38:41 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>佛教語大辞典</title>
         <description><![CDATA[<p class="mds2">佛教語大辞典　縮刷版　　　　中村元著／Ｂ５判・１４６９頁／東京書籍刊</p>
<p>仏教語の辞書のスタンダード中のスタンダード。堂主が東洋哲学を学んだ都の西北の教授陣は、他人の著書を批判しこそすれほめることはほとんどありませんでしたが、本書についてはマイナス評価を聞いたことがありません。</p>
<p>４万５千語に及ぶ豊富な語彙を収録し、中村博士自身による分かりやすい記述は、初学者から専門研究者に至るまで圧倒的な支持を集めています。</p>
<p>１９７５年刊行の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4487731518?ie=UTF8&tag=wwwyamanitrus-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4487731518" target="_blank">『佛教語大辞典』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=wwwyamanitrus-22&l=as2&o=9&a=4487731518" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;"  />、１９８１年刊の<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4487731526?ie=UTF8&tag=wwwyamanitrus-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4487731526" target="_blank">『佛教語大辞典 縮刷版』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=wwwyamanitrus-22&l=as2&o=9&a=4487731526" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />、および２００１年刊行の増補版である<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4487731534?ie=UTF8&tag=wwwyamanitrus-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4487731534" target="_blank">『広説佛教語大辞典』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=wwwyamanitrus-22&l=as2&o=9&a=4487731534" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />がありますが、使い勝手と価格の面から手元に置くには縮刷版がオススメ。</p>
<p>本書を座右の書とすることにより、日本語の理解、哲学的思索がさらに深まることでしょう。</p>]]></description>
         <link>http://www.yamani-philos.com/010/post_2.php</link>
         <guid>http://www.yamani-philos.com/010/post_2.php</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010基本テキスト</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 27 Mar 2007 15:37:53 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
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